突然気づいた、山登りはとても道家的なことだと
山は天地と同じ寿命を持つ奇妙な生命体であり、天地と同じ寿命を持つ。
あなたは石を踏み、竹林を抜け、何億年も生きてきた生物と一緒にいて、エネルギーを交換する
登り始めのとき、頭の中には何でもあった:
どこまで来た?あとどれくらい?歩いているうちに、それらは消えていった。
考えがまとまったのではなく、考える力がなくなったのだ。
長く登ると、奇妙な状態に入る。
両足を交互に、機械的に歩を進める。
四肢は自分の意志を持ったかのようで、頭の指示は必要ない。ただ歩くだけだ。
おそらく荘子の言う「堕肢体、黜聰明」ということだろう
やがて山の下の家々は小さな点になり、山の下の出来事も小さくなっていく。
その瞬間、すべてが報われた。
報われたというより、報われるかどうかの問題自体が消えたのだ。
山はそこにあり、人はここにいる、それで十分だ。
人々は山登りが征服のため、頂上に立つため、写真を撮ってSNSに投稿するためだと思っているかもしれない。
しかし頂上に着いて初めて気づく、人は山に征服されに来たのだと
山を登るとき、心の中で自分の埋葬地となる山を選ぶ。
この山は急すぎる、あの山は遠すぎる、この山がちょうどいい。
日当たりが良く、風が良く、眺めが良い。
いつか土になる場所を選ぶとしたら、ここを選ぶ。
しかし山は気にしない。
あなたが来たことも、去ったこと
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